
予定通り母に会いに行ってきました。
母と顔を合わせた瞬間、「なんだか疲れているな」と感じました。
体調が特に悪いという訳ではなさそうでした。
しかし、ちょっとした会話や動作でもすぐに疲れてしまうようで、以前より明らかに体力が落ちているのがわかります。
それでも、会えば会話は弾みます。
近況報告や昔の思い出話に花が咲き、母も笑顔を見せてくれました。
ただ、最近の母には以前とは違う「変化」があります。
それは、人の悪口や不満を口にすることが非常に増えたという点です。
友人、老人会の仲間、親戚、兄弟、そして義姉に至るまで、あらゆる人への不満や批判が止まらず、まるで噴き出すように言葉があふれ出てきます。
私はひたすらそれを聞き続けるしかなく、正直なところ精神的にとても消耗してしまいます。
高齢になると愚痴が増えることは珍しくありませんが、最近の母には強い被害者意識が見られて物事を極端に悪く解釈する傾向があります。
これはもしかすると、認知症が進んだのかも知れないと感じるようになりました。
さらに困るのが、母の話にうかつに同意してしまうと「あなたがそう言った」「あなたの意見だった」とまるで私が発言者であるかのように話がすり替わってしまうことです。
例えば、誰かに対する母の不満に「そうなんだ、大変だったね」と共感を示すと、次には「あなたもあの人のことを悪く言っていた」と言われてしまう。
あたかも私が悪口を言いふらしていたような扱いを受けるのです。
こうしたことが何度も重なり、私は母の言葉に対して慎重にならざるを得ませんでした。
どれほど母に寄り添いたくても、もう簡単に同調することはできません。
自分を守るための距離を取るようになったのです。
象徴的な出来事がひとつあります。
母が「携帯電話が欲しい」と言い出したときのことです。
高齢者にとってスマホはハードルが高い部分もありますが、それでも本人の希望ならと、私は何時間もかけて契約に付き添いました。
分かりやすい機種を選び、丁寧な対応ができる販売店を選んで、ようやく契約を終えた翌日に販売店から「お母さまが契約をキャンセルされました」と連絡がありました。
驚いて母に確認すると、「私は欲しいなんて言ってない、なたが勝手にやった」と言い放たれました。
信じられない気持ちとショックで、言葉が出ませんでした。
それでも私は、もう一度ならうまくいくかもしれないと再チャレンジしました。
けれど結果は同じでした。
今度こそ、「もう無理だ」と思いました。
母の望むことに全て応えてはいけない。
自分の気持ちが壊れてしまう。
そう悟った瞬間でした。
このようなすれ違いは、携帯電話に限らず他にもたくさんあります。
私はそのたびに期待し、傷つき、疲れ果てていきました。
そんな折、母が体調を崩して入院しました。
入院中の母は、体力も精神力も落ち込み以前とは違って見えました。
その姿を見たとき、不思議と私の心にも変化が生まれました。
「母も年を取ったんだな」
そう思った瞬間、怒りや苛立ちよりも「かわいそうだな」という気持ちが勝るようになりました。
もちろん、これまでの出来事が全て水に流せるわけではありません。
母との会話の中で、今も心が痛むことがあります。
それでも私は、接し方を少しだけ変えることができるようになりました。
母の言葉をすべて真に受けず、受け流せるところは流す。
距離を取りすぎず、でも巻き込まれすぎない絶妙なバランスを探りながら「今日は会いに来てよかった」と思える時間を作るよう心がけています。
高齢の親との関係は、正解のない難しいテーマです。
介護ではないけれど、心のケアが必要で、でも自分自身の心も守らなければならない。そうした日々の中で、私は少しずつ「親との向き合い方」を学んでいます。
これからも、母との時間は続いていきます。たとえ山あり谷ありでも、向き合い続ける覚悟だけは持ち続けたいと思っています。
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